実践型AIプログラミング特講 番外編appleが提唱するデジタル教育とは#28

実践型AIプログラミング特講 番外編appleが提唱するデジタル教育とは#28

前回の建設的なAIコーディングと打って変わって、今回はappleが理想とするIT領域における教育のあり方について特別編としてご紹介していきます。そもそもIT領域の学習というものにピンと来てらっしゃらないからも多いと思うので補足すると、ここでいうところの学習とはまず皆様が現在進行形で学ばれている実践的なコーディングも内包し、さらにIT技術とはそもそもなんなのか、IT技術を使用するとどういう世界が構築することが可能なのかリテラシーのような知見、開発者として共同開発を行なっていく上で総括する側に必要なリテラシーについて、この全てがIT領域における学習の範囲です。皆様が朝見るニュースで某会社がモビリティとITインフラを組み合わせることでイノベーションを巻き起こそうとしている、これもIT領域における学習に含まれます。本記事を学習することで皆様が未来どのようなことを学習すればいいのか、学習プロセスが今後どのように変化していくのが理想的なのかを考察していこうと思います。

デジタルネイディブが伸び伸び成長する環境創生

デジタルネイティブ?

「デジタルネイティブ」という言葉は、起業家で作家のャーク,プレンスキーが2001年の記事に初めて登場させた造語で、1979年以降に生まれた人全般が当て具体的には、パーソナルコンピュータ、電子ゲーム、タブレット、そして携帯電話といったデジタルの世界に囲まれて育った第一世代という意味です。

たとえば、グーグルが誕生した後に生まれたいまの高校生はTwitterが存在しない世界を知りません。おそらく図書館の目録カードを(どころか図書館カードすら)使ったことは一度もないと思います。彼らが頼るのは、ウェブの検索エンジンやウィキペディアやユーチュープなど、瞬時に答えが見つかります。2018年に大学を卒業した学生も、最初のiPhoneが発売された2007年にはまだ小学生でした。いまやアメリカの中学生の5人に4人が自分の携帯電話を持ち、2時間いつでも利用できる膨大なコンテンツやアプリを使っています。電子機器が持つ力が変わったことは大きいが、注目すべきはそうした機器に命を吹き込むプラットフォームやエコシステムの変化です。

アプリ世代とは?

いま成長途上にある子供たちは、「アプリ世代」とも呼ばれます。多くの大人が「ツール」と表現する現代のテクノロジーは、デジタルネイティプにとっては彼らを取り巻く環境の一部でしかありません。私の世代にとっての電気のような技術と同じです。私が子供の頃、電気は使うものではなく当たり前に存在でしたこうしたことから、プレンスキーは「デジタルネイティブの考え方や情報処理の仕方は、彼ら以前の世代とは基本的に違う」と語っています。だが認知神経科学者の多くはその意見に異を唱え、「脳の憧報処理の仕方は一人ひとり違うのであって、世代の違いは関係ないと反論しました。いずれにせよ、デジタルネイティブがテクノロジーを介して膨大な量の情報に触れていることは間違いないとされ、それによって脳内で起こる変化が激しくなり、そのスピードが大幅に加速したことは否めない。

はっきりいって、いまの子供たちには、教科書ではなくモバイルアプリから、より多くのことを発見し学習する力が備わっています。これまでに書かれたどんな教科書も、アプリにはかなわないと思います。「教育が直面している最大の問題のひとつは、教師がデジタル時代以前の古臭い言葉を話しながら、デジタル時代の言葉しかほば話きない生徒をひとまとめにして教えようとしていることだ」とプレンスキーは言います。現在の教育システムは、いまとはまったく違う子供たちに教える目的で考案されたものです。そのときとは、世の中もニーズもまったく違ます。

次にくるもの

いまは急速に技術革新が進む世の中です。毎日のように、何かを変える新たな発関品を携えた新興企業が、どこからともなく現れます。創造力にあふれ、最新テクノロジーを手にしたビジョナリー(先見の明のある人),は世界中にいて、彼らが体制を破壊しい効率の悪いデザインを見直し、時代遅れになったシステムを更新し、産業金体を盛て直してくれました。

しかし、そこに教育は含まれていない。0世紀のあいだ、教育システムに革命的な変化は一切起きていないと思います。地域の学校やクラス単位レベルで有望な成果をあげた例はあっても、もっと大きなスケールでの新しいことは何もないように思えます。大志ある発明家が教育改革にのりだしたときの話をしましょう。彼はすでにいくつもの発明で成功を収めていました。彼もまた、私と同じく教科書や授業を退屈に感じていたひとりで、もっといい教え方があるはずだと思ってました。

そして、現行配線のの教育システムは短絡的であり、リワイヤリングが必要だと気づきました。彼は当時の最先端技術を使って、誰も見たことがないような何かの発明に取り組みました。発明品が完成すると、彼もそれを知ったメディアも大いに気に入り、教育を永遠に変えるものの誕生だと宣言しました。退屈な教科書は、もう過去のものです。全生徒が平等に学習できるまうになり、従薬の教室につきものの、きれいに並んだ机、始業のチャイム、教室の前にひとり立って授業を一る教師は間もなく消滅する、そう思われていました。その発明は「教育映画」と呼ばれるもので、トーマス·エジソンという男が1911年に完成させました。

それから1世紀以上たつが、彼の発明があまり普及しなかったのは明らかで、学校やグラスは当時からあまり変わっていません。どうして普及しなかったのでしょうか?エジソンは、1877年に蓄音機、1879年に白熱電球、1891年に映画撮影用カメラと、世界を変える発明をすでに成し遂げていました。だが、教育を進歩させることはかなわないませんでした。人類史上最高の発明家のひとりですら教育改革を阻む壁を乗り越えられなかったとしたら、いまの私たちにその壁を克服できる望みはあるのでしょうか? 何を変えられるというのでしょうか?それを知るために、まずは教育映画というアイデアの何が悪かったのかを探ってみようと思います。実は、エジソンの発明が失敗に終わると予言していた知識層がいました。とりわけジョン·デューイという心理学者が有名で、エジソンの発明は斬新だが実用的でないと異議を唱えました。学習は、子供自身が参加して双方向のやりとりを通じて学ぶのが必ずベストであり、子供が実際に何かを「する」ことが大切だと彼は指摘しています。ただ座って映画を観るのでは、ただ座って人の話を聞くのと変わりません。本物の学習は人とのやりとりを通じて生まれるものであり、黙って観るという受け身の姿勢ではなく、自ら参加する積極的な姿勢が必要だというのがデューイの主張です。エジソンが失敗した後も、彼の意志を継いだ多くのピジョナリーや発明家や改革者が独自の「次にくるもの」を発表したが、エジソンと同様にいずれも失敗に終わりました。なぜでしょうか? デューイの主張が正しかったからです。退屈なコンテンツを別の媒体に移したところで、退屈であることに変わりはなく、学習体験は何も改善しません。テクノロジーに教育を改善する可能性が秘められているといっても、実績のある学習法の完成度を高める目的や、その学習法を使う教師の指導力を向上させる目的で使われなければ、テクノロジーの活用はしょせん失敗に終わります。

私たちが望むスケールで、私たちが望む教育の未来を確かなものにするためには、テクロジトし学習の融合が不可欠です。幸い、新たに生まれた(生まれようとしている)イノベーションにより、この2つの融合は間違いなく始まっています。おかげで教育の未来は、エジソンが発明して世界を本当に一変きせた白熱電球のように明るいといえます。ただし、テクノロジーと学習の融合を成功きせるには、変えなければならないものがあります。私はアップルの教育部門のバイス·プレジデントを長きにわたって務めるとともに、4人の子供の父親であり、6歳の孫の祖父でもあります。そうした立場のおかげで、幸運にもテクノロジーやイノベーションが授業や学習に類いまれな力を与える場面に立ち会うことができました。世界のきまざまな地を訪れて、最高、最低どちらの教育システムもりの目で見ました。別年以上にわたって教育とテクノロジーに携わり、政府、地域、学校、教師、起業家、親たちがきまざまな手段で教育システムの改善を試みるさまを目撃しました。彼らがもたらす変化は、大きく次の2つに分かれます。システムの部分的な修正と、システムそのものの交換です。残念ながら、いまの教育に必要とされている類いの変化は、どちらのやり方でも生まれそうにありません。

結び

いかがでしたでしょうか、少し中途半端なところですが今回はここで筆を置くことにします。次回以降の記事も心待ちにしていただけたら幸いです。

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